日本でハリウッドVFXを制作! 「経産省アイディアボックス」 結果:  
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2010年6月6日日曜日

プログラミング言語の学習における「具体」と「抽象」

プログラミング言語は、すべてが文字であり、具体性がない。
すべては実行してみて、結果を見てわかるのである。

この「具体性←→抽象性」というのは自分にとって結構くせ者であった。
ほとんど全ての、プログラミング言語の入門書は、このはざまに揺れているように思う。

児童心理学で有名らしい(さっきまで知りませんでした)「ピアジェの発達心理学によると、
「具体的操作期」と「形式的操作期」というのがある。
詳しくはこのホームページを参照していただきたい。

具体的操作期: 目前にある具体的なものを操作して理論的に考えられるようになる。

形式的操作期: 目前にないものでも論理的に考えられるようになる。過程や抽象的なものも扱えるので「もし~ならば~である」が可能となる。


これは人間の発達過程を研究する「発達心理学」であり、誕生から青年期までの成長過程をしめしているものだが、これは人それぞれに程度はあると思う。
特に「形式的操作期」まで完全に達していない成人も多々いると思うし、特定の分野においては「具体的操作期」程度しか能力が発揮できないこともある。
(自分の場合は、ほぼ「具体的操作期」で止まっているような気もするがw)


ここで重要なのは人は「具体的操作期」を得て、「形式的操作期」に達すると言うことだ。
これは非常に重要なことで、個人的には昨今の幼児教育でTVやコンピュータを利用するのに積極的になれない理由はここにある。
多くの教育において、「具体的操作期」において、個人(子供)が具体物にふれあい親しむ機会がどんどん失われている。
それでいて「形式的操作期」対象のものがどんどん低年齢の子供に用いられる。

TVは具体性があると思われる方もいるかもしれないが、TV、文字、写真は具体物ではない。
(例:犬の写真は犬という具体物ではない。)

これは、現在の社会においてますます「抽象性」を操る能力が必要とされているからであるが、その教育体制において人間性の未発達が問題になるのは、関連性があると個人的には考えている。
もしかしたら、突発的な犯罪や、ニートといった現象も関連性があるかもしれない。


成長段階における「具体性」を理解するにはモンテッソーリ教育の二項式、三項式のブロックが良いでしょう。
普通の生活をしていて、二項式、三項式という代数を、大人になってからもしっかりと覚えている人は少ないでしょう。
プログラミングの勉強で、数学を中学生の所からおさらいし直したというのはよく聞く話です。

「モンテッソーリ教育」においては二項式や三項式は幼稚園児のカリキュラムに組み込まれています。
うちの子供の学校でも、4歳ぐらいの子がやってました。
そういうと早期詰め込み教育だと誤解する方もいるかもしれないので、もう少し説明を補足します。

まずモンテッソーリ教育でつかわれる二項式のブロックはこのようなものです。


これは詳しく説明されないとわからないかもしれませんが、二項式の原理を非常にうまく表現しています、数学に詳しい人なら、すぐに理解できるかもしれません。
当然ながら幼稚園児に公式が説明されるわけではなく、二項式を理解することを求められてはいません。
幼稚園児がやるのはこの積み木を箱から出して、規則に従って並べて、サイズと色をみながら箱に戻すとというパズルのような作業だけです。
ここで、目的としているのは色と各ブロックのサイズにより二項式の表している内容を「具体的」かつ「感覚的」に体験することです。

その程度しかやらないのですが、大きくなって学校で二項式、三項式を勉強している子供が、この幼児体験をちゃんと覚えていて先生に「ぼく二項式を使ったことがある!」と言った例も報告されています。
 数式で教えられなくても、「具体」物を使うことで、幼稚園児でさえ、その基本的ルールを理解していたということですね。

人間の能力のすばらしさと共に、「具体」というものがいかに簡素かつ強力であるかがわかります。
 また「抽象」というものが「具体」に根ざしていると言うこともわかります。


さて、この代数のブロックの例から考えると、いかに大人の勉強で、「具体」が排除されているかがわかります。

プログラミング言語の学習においては、数学や、アルゴリズムに触れることが多いのですが、この具体性の部分はほとんどが省略されています。
そうでないと肝心の勉強が進みません。
何より大人が対象である以上、それらは省略しても理解できると言うことが前提となっています。

この部分に関する個人差が、プログラミング学習における継続できるかできないかに大きな役割を果たしているのではないかと推測しています。

なので、具体性を感覚的に理解するようにすることは、プログラミング学習において非常に助けになると思いますし、私もいつも自分の学習にはできるだけ具体性を取り入れるようにしています。



幸い我々は大人であるので写真をみて感覚的に理解することはできますから、インターネットで写真などを見ることは大きな足す池となります。
しかし、時として現物に触れることは、写真では得られない助けとなることがあります。


子供のいる方は、積み木で遊んだり、砂場で遊んだり、水遊びをする機会も多いと思います。
そういうときにいちいちプログラミング学習のことを考える必要ないのですが、感覚的な部分を呼び覚ます効果があるのはたぶん合意できる方は多いのではないかと思います。

デジタルドメインの坂口さんも水のツールを開発する時期、よく海を見ていたそうです。

2010年6月4日金曜日

フラット化するCG業界 「My Job Went To India」


 (「Will VFX for Food」: 「Will Work for Food」をちょっとフォトショでいじって作ってみました。「Will Work for Food」の意味についてはこちら


注意: 今回は結構、悲観的な見方の部分もあります。 前もって行っておきますが、全ては自分の想像で書いており、的確な市場調査による統計に基づいたものではありません。
二つステップぐらい先読みして、最悪の事態を考え、今やるべきことを明確にするということを目的に書きました。
これあから海外を目指す方、CG業界に入る方、闇雲に不安になるより現状を見据えて、自分自信でこれから先のことを考慮することは無駄ににはならないと思います。


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北田栄二さんが、ブログのエントリ「ここ最近思うこと。。。」で、最近のCG業界の厳しい状況に触れている。
残念ながら、ほとんどがかなり同感で、かならずしもCG業界の未来は明るいとは言い難い。

この業界の下辺で、フリーランスとして生きていると、その厳しさは骨身にしてみてよくわかるw
自分が好きでやっている仕事だからと、言い聞かせるが現実問題、生活できなくなっては意味がない。


経済的な面を考えて、よりよく生きていく必要があり、もしかしたら業界の骨組みを買えていく必要さえあるかもしれない。

そこで、これからの経済の傾向を先取りして、生き残るにはどうすれば良いかと言うことを考えてみた。
自分に思い浮かぶのは「プロシューマー」「フラット化する世界」というキーワードだ。




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プロシューマー(生産消費者)
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このブログでも、時々、アルビントフラーのプロシューマー(生産消費者)について触れてきた
メモ: 生産消費者
円谷プロ買収とニッチな映画とアルビン・トフラー


10年前は、インターネットにある情報と言えば、ほとんどがどうでもいいような内容ばかり、たまに有益な情報があると高額な費用が必要だった。
ところが、最近は、何かをやろうと思えば、Googleで検索すれば、そこそこの内容の情報を手に入れることができる。
これは「自分で満足するために財やサービスをつくりだす」プロシューマーにより支えられている。

厳密な意味で考えたとき、プロシューマーは「お金のため」でも「顧客のため」でもない、「自分の満足のため」と書いてある。

自分の満足がお金や顧客につながっているのであればそれはかまわないのだが、目的ではない。
それが収入になるかどうかは問題ではない。
これは、お金に苦労している人間にとっては厳しいところであるw

しかし、プロシューマは絶対に増加し続ける。
これは確かである。
「生産消費」と経済活動をうまく結びつけるのは、少し工夫がいるのだが、最近はなかなかうまいケースが増えてきた。

どれもに言えることは、やはり自分が満足できる「もの」や「こと」が出発点となっている。

あえて言うなら、自分に妥協しないで満足できるものというのは質の良いものになることが多く、それを求める潜在的なニーズは存在する。
結果的に収入につながるというわけである。

実はこれは本来の商売や経営、仕事の基本だ。
「ユダヤ人大富豪の教え」で有名な本田健の著作も、「好きなことをする」というのがメインの柱になっている。


プロシューマーという言葉を使うと目新しいが、本来の人としてあるべき姿と考えれば非常に理解しやすい。
プロシューマーになろうとするなら、徹底して妥協しない自分の満足を求める必要があるのかもしれない。
意外かもしれないが、普通の人で、なんとしてでも、どんなことをしてもお金持ちになろうと思っている人はそれほどいない。
生活に困ることがあるから、困らないほどお金が欲しいと思っている人がほとんどだ。

気になる人は是非、アルビントフラーの本と本田健の著作を読むことをおすすめする。

さて、このプロシューマーの考えをCG業界に当てはめれば、自分の作品を作りYoutubeやニコ動にアップする人たちがそれに当てはまるかもしれない。
最近では名前が売れてない作家が、Youtubeに動画をアップして、好評を得るケースもたくさんある。
それが、直接経済活動にむすびついているわけではないが、CG業界の一つの選択肢であることには変わりないだろう。



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フラット化するCG業界
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もうひとつのキーワード「フラット化する世界」
これはまさに現在のCG/VFX業界にもぴったり当てはまる。

現在、ハリウッドのCG作業は世界中にアウトソーシングされている。

そこにあるキーワードは「経費削減」である。
そして、アウトソーシングは確実に効果をあげる方法であり、すでに映画産業はそこに活路を見いだした。

総すかんを食らったハリウッドのアーティストは、苦境に陥った。
以前はCGをやっていれば、平均以上の収入はあったが、いまでは平均レベルにまで落ち込んできた。
ハリウッドでもVFXの組合を作ろうという動きが出てきたほどだ。
連日、様々な雑誌や、ブログ、Webサイトなどでこの手の話題がでるようになった。
このことを憂えたり、映画製作会社に交渉して、以前のような「豊富な仕事」「満足行く給料」を取り戻せるのだろうか?

答えは「No」であることはわかりきっている。
いったん単価が安くなった仕事が再び高価な単価に戻ることはない。


だれも同じ品質のものを高いお金をだして買おうとは思わないだろう。
映画製作会社も同じだ、ボランティアではない、制作費が安くてすむなら、そちらを選ぶのは企業として当然だ。
映画産業でのアーティストは、言い過ぎかもしれないが、工場のライン作業者と同じだ。

売れる新商品のアイデアを出せる人に企業が高給を出すのと同じように、
人が注目するVFXのアイデアを生み出せる人でない限り、映画製作会社もお金を出し渋るだろう。


では、アウトソーシング先のカナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、インド、中国などはどうなのだろうか?
そちらへいけば、以前のハリウッドのように豊かな生活ができるのか?

そういう国へいったことがないので、推測になるが、当面は大丈夫だろう。
しかし、それらの国の給料が高い保証もない。
利点としては仕事があるということぐらいか?
そういう国も、給料を上げることはできないのだ。


では、ここまで世界に分散化したCG/VFXの仕事は将来どうなるのか?
そのうち、どこの国で作っても、質のさほど変わらないCGができるようになる。
どこの国の人でも、COOLなCGが作れるようになっていく。
そしてこれからも、さらに分散化と単価の切り下げが進む。


ようするにCG/VFX業界で、満足のいく収入を上げられる時代は終わりが見えてきた。
世界のどこへ行っても、どんどん給料は安くなっていく。
好きなことをやってお金を儲けられる職業ではなくなっていく。
要するにどこの国へいっても、すぐに同じ状況になっていく。

より安全で、大きな船(職場)をさがして世界を旅するのは、もしかしたら滑稽な話かもしれない。



これが5年後に深刻な問題となるのか、10年後になるのかはわからない。
今すぐではないことは確かだが、同じぐらいそういう結末になる可能性がある気がする。

以上が、現在自分が考えているこの業界の末路である。
ただ、業界全てがそうなるかどうかはわからない。
ILMやドリームワークス、ピクサー、Wetaなどの質の良いものを作る大きなプロダクションはしばらく現状のままでいけるようにも思う。
(もしかしたら、持てる企業持たざる企業のように二分化した状態になる可能性もある。)

こういった理由から「ハリウッドVFX@日本」の計画では、ハリウッドの映像製作に関する様々なノウハウを吸収することを目的にしていた。
CGのスキルやパイプラインととらえていた方もいたが、それはほんの一部であり、プロデューサーやCGスーパバイザーの仕事のやり方を盗むことのほうが重要だと思っていた。
それにはアーティストに対する接し方、市場を重視した戦略の建て方を含んでいる。
またパイプラインに関していっても小手先の技術ではなく、パイプラインを構築するための根底にある黄金律のようなものを体で身につける必要があると思っていた。
ハリウッドの大手が持つCGパイプラインはだれもが指摘するようにそのまま今すぐ持ち込むことはとうてい無理である。
なにより、日本人ならそれ相応のものを自分たちで作り出すことも不可能ではない。
そのときになれば作ればよい。ただし、そのときになって作れるように、その概念と便利さを実地に照らして、十分、理解しておく必要がある。




こうすることで将来の日本の映像産業の根幹をささえるノウハウを手に入れられればと思っていた。
まぁそれにしては、行き当たりばったりの理論をふりかざしていたので説得力に欠けていたのは反省すべき点である。


参照: 
「フラット化する世界」
第18回 「フラット化する世界」のキャリア形成を考える

次のも非常に参考になる。
第23回 アメリカ人ITエンジニアもいなくなる?

猪瀬直樹の「眼からウロコ」 第23回 2008年は「フラットな世界」を乗り切るための改革を (2008/01/08)



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このような時代で長期にわたり生き残るにはどうすればよいのか?
自分なりに考えてみたのが以下の事柄。

1)フラット化したCG/VFX業界を利用する立場になる。

これは日本より単価の安い国を使って映像作品を作る方法がある。
アーティストの立場ではないかもしれないが、企業の生き残りには必要かつ有益かもしれない。

2)使われるアーティストではなく、プロシューマーのように映像を自ら作家となり、提供する立場になる。
フラット化することで世界の質の高いアーティストを、使って映像を作るのがより容易になるかもしれない。
そういう映像製作の専門会社を作っても良い。

3)今までと同じ、映像製作へ関わり方だが、収入体系を変える。
たとえば、今までは「CGを作って給料をもらっておしまい。」だったが、それ以降も、作った映像がヒットすれば、得られた収入を分配するシステムなど。



これからの映像業界はますますニッチなニーズが増えてくるだろう。
生活の末端に至るまでありとあらゆることに映像が必要とされるようになる。
そうなるとプロシューマー的な映像や、TV番組のような低予算映像の仕事は増加する。
3D映像はブームにはなるが、おそらく市場としては、2Dとの棲み分けになるので、3D映像独自のマーケットが現在の2D映像マーケットに加わってくることになる。

こうしたことで、「単発」、「小規模」、「低予算」の映像製作は増加する可能性もある。
それぞれがどの程度のものなのかはわからないし、単価がどの程度かもわからない。
しかし、こういった単発仕事を効率よく集めて、効率よく作るようにできれば、生き残れる可能性があるか。
これは今現在も各社が工夫している。
以前紹介したZOICのZEUSもその一つだろう。



「フラット化する世界」で言われているように、2000年以降は「個人のグローバル化」の時代である。
もしかしたら企業という形態ではなく、必要なときに世界各地から協力するチームのような形態がとれるかもしれない。




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引用したサイト「第18回 「フラット化する世界」のキャリア形成を考える」にも、よい解答がある。
実は、上記のアイデアを出した後に読んでみたが、いくつかは当てはまっているので、方向性は間違えていないようだ。

フラットな世界で個人として栄えるには、自分を「無敵の民」にする方策を見つけなければならない。(中略)無敵の民とは、「自分の仕事がアウトソーシング、デジタル化、オートメーション化されることがない人」を意味する。
第18回 「フラット化する世界」のキャリア形成を考える より引用


これを、もう少しかみ砕いたものが以下の部分


(1)「かけがえのない、もしくは特化した」人々
自分たちの商品やサービスを販売できるグローバル市場を持ち、グローバルな報酬を得ることのできる人々。例えばマイケル・ジョーダンやマドンナ、一流のがん研究者など、それぞれの分野で超一流の人々

(2)「地元に密着」して「錨を下ろしている」人々
特定の場所で仕事をしていたり、顧客との個人的な結び付きや相互交流があったりする人々。労働の知識や技術の程度に関係なく、地元の需要と供給によって決まる職種に従事している人々

(3)さまざまなミドルクラスの仕事をしていた人々
以前は代替不可能、外国とのやりとりも不可能と考えられていたが、いまでは代替も外国とのやりとりも可能になった仕事(データ入力、セキュリティ分析、経理関係など)をしている人々




このあたりから考えると、VFXスーパーバイザー、プロデューサー、TDなどは生き残れる可能性があるのかなと思う。

フリードマン氏は、多くの人が(3)の「旧ミドルクラス」のような仕事に従事しているままだと、(フリードマン氏の視点の軸足である)アメリカは大きな問題を抱えることになると指摘している。これを乗り越えるための「新ミドルクラス」に必要な人材として以下の8通りを挙げ、それぞれを説明している。
・偉大な共同作業者・まとめ役
・偉大な合成役(シンセサイザー)
・偉大な説明役
・偉大な梃子入れ役
・偉大な適応者(アダプター)
・グリーン・ピープル
・熱心なパーソナライザー
・偉大なローカライザー

(『フラット化する世界』より引用)



「フラット化する世界」の考え方は、CG業界にもおそらくぴったりだと思う。
CG業界のグローバル化について考える上で、おそらく何らかの解答をもたらせてくれるだろう。
そういう自分は、まだ読んでない(^^;)



そのほかの参考本:
My Job Went To India オフショア時代のソフトウェア開発者サバイバルガイド
まさにその通りwのタイトル。 
今回のエントリのタイトルに入れたのはこれです。
内容はかなり良いらしい。読んでみたい。
この本のリビュー(ブログ:このブログは証明できない。

追記: いまAmazonから注文しました。

2010年6月3日木曜日

今日からMethod

今日からMethodでの勤務が始まりました。
今回はCM部門での採用で、3本やる予定だと聞いていますが、働きようによっては予定変更(早期首切り)もあり得るのでがんばろうと思います。

最初は、契約書などに目を通し、7~8枚の書類にサインをし終わったときにはすでに1時間経過。

その後CGスープに紹介されて、 実作業の開始です。
Houdiniの心配をしていましたが、今回はMayaでの作業でしたw

 しかし、Methodは、いい人が多いです。
 まぁなれてくると、アメリカンジョークで突っ込み入れられることもあるかもしれませんがw
それでもだらだら感はなく、ちゃんと仕事している人たちだなという印象は変わらないだろうなと思います。


お昼ご飯は、歓迎をかねて、お世話になった成田さんと、他に以前から知り合いの日本人スタッフの方と一緒に中華料理レストランへつれていってもらいました。



Methodは、建築物的にも環境がいいので、リラックスして仕事に集中できそうです。

Apple、インターフェイス、PC その2

さて理想のモバイル端末は「デスクトップ並みの性能」を期待していたが、それは具体的には、MayaなどのCGソフトが起動できる程度であってほしいと思っている。
特に複雑な操作はできなくてもよくて、Melの勉強やちょっとしたR&Dに使えるほどのものであれば良い。

ただ、前回も述べたように、それが実現するのは、かなり後のことになるだろう。

それでもあきらめきれずに可能性をいろいろと探っていたが、そこで、見つけたのがシンクラアント方式。

ワイヤレスの、液晶タッチパネルのシンクライアント。
インターネットに接続してその機能が使えるなら、どこでもデスクトップの性能がそのまま利用可能となる。
実は、モバイルだけでなく、自宅のPCはすべてこれにすべきではないかとも思った時期がある。
大きなデスクトップマシンは、(空調の問題は解決しないといけないが)押し入れの奥か専用の物置に置いておき、モニターとキーボードとマウスだけがワイヤレスで机の上に乗っている。
そして液晶タッチパネルの子機もある。
これが一番すっきりしているからだ。


実際の所、そこまでのものではないが、ELSAが発売したシンクライアントはLAN環境内なら3Dゲームもできるほどの性能を持っている。

ただ、インターネット経由ではやはり、実用的ではないようだ。
テキスト主体のものならさほど問題はなさそうだが、CGのようなヘビーな処理には無理だろう。

実際の所、VNCなどの操作を試した段階で、こりゃ今の技術じゃだめだとあきらめた。



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話が、いろいろと飛んで、前回と今回はかなりわかりづらいエントリになってしまっているような気がするが、もう少し続けたい。

前から時々ブログにも書いているが、私はPCがそれほど好きではない。

ハードウエア(PC本体)に関して言えば、、目の前や足下にはないほうが静かでいい。
家庭用の湯沸かし器や、配電盤が外や目立たないところにあるように、PCもそうであるべきだと思っている。
それが上記のシンクライアントの発想にもつながっている。


元々、8ビット・マイコンの時代から始めたのが原因かもしれない。
それまでは「コンピュータ」というとSFのTVや映画にしか出てこないか、あとは大企業のシステムというイメージしかもっておらず、それがマイコンの時代になり、自分たちの手にはいるということだけでかなりエキサイティングだった。

そう、それまではコンピュータは大好きだったのだ。

しかし、最初のFM-7を購入し、そのグラフィックスの貧相さにがっかりした。
1)期待のワイヤーフレーム画像は、がたがたのアンチエイリアスがない画像。
2)アニメーション画像も、ぱたぱた(点滅する)した感じ。
3)画面いっぱいの大きな画像になると、アニメーション不可
4)市販ソフトの絵でも、へんなところが直線になっていたり、デッサンが崩れている絵が多い。
5)グラデーションがかからない。(バンドが生じる)
8)大きな文字や絵は輪郭を書いて後で色が塗られる。その過程をずっとみて待たないといけない。
9)カタカナ、英語フォントのみ。(漢字は別売りの漢字ROMを買う必要があった。当然高すぎて買えなかった)
10)RGBで全ての色が表現できる三原色なのに、8色しか出ないのはなぜ?!(しかも極彩色!)


その貧相さにがっかりし、何とかしようと、自分でも画像ソフトを借りて、絵を描いたりもした。
(当時はソフトのレンタル店があった、コピーにはダブルカセットデッキを使っていた。)

アニメーションを作るためにスプライト機能を使い、ドット画で、リアルなキャラを作ろうとしたこともあったが、茶色などを作るにも赤と黒のドットを混ぜるような技が必要で、見た目もざらざらしているので限界を感じた。

また、その音の質の悪さにもがっかりした、まるでおもちゃの音しかしない。
後に発売されたFM音源カードを速攻手に入れて、大きく改善されたが、なれてくるとそれでもコンピュータ臭さが感じられるようになってきた。


これらは、以下のニコ動をみるとわかる。


FM音源はFM-7用は現在みれないが、それよりも性能がよいFM-77の動画を見ることができる。


ちなみにこれらの動画は5.25inchフロッピーディスクやコンパクト・フロッピーでの動作を再現したものであり、テープを使っていた場合、そのデータの読み取りにもかなりの時間がかかった。
この読み取り時間が長いのがかなり嫌だった。
たまに読み取り時間が短いと、タイトル部分だけでクリックしたらまた待たされるといった具合。
アドベンチャーゲームなどは次の画面に移るまでにトイレに行ったりお菓子を取りに行く時間が十分にあった。

この待ち時間が、上記グラフィックスと音に対するがっかり感に加えて苦痛だった。
1)かなり待たされたあげく貧相な画像を見せられる。
2)かなり期待させられたあげく、貧相なゲーム。
3)長ければ30分近くまってソフトの読み取りをしているのに、ピーーッとエラー音がしてすべてご破算。
4)ゲームの途中で画面が一行あがって、左下にエラーメッセージが表示されてすべて止まる。


それまではコンピュータは何でもできる万能機械というイメージがどこかにあったので、その制限だらけの現実に、余計にがっかりさせられたのだろう。
プログラムの本などを読むと「コンピュータは何でもできるわけではありません。あなたが支持してやらないといけないのです」と書いてあり、これを真剣に受けて、いろいろなベーシックの本を読んだり、本に投稿されたベーシックやマシン語の入力をしたりして、状況改善に努力もした。
しかし、結果は実らなかった。
実るわけがない、ハードの限界なのだから...。

それでもコンピュータの可能性を高らかに歌う企業広告は、後を絶たなかった。

使いこなせる人もいるだろうが、自分の場合はやってていらいらするし、使いこなせる人が作ったものをみても、なんらおもしろそうなものを作ってない。
これが自分の結論であった。
こういう経過を得て、「コンピュータ=待たされる → がっかりさせられる」という図式が身にしみてしまった。

それからはコンピュータはデータを管理するような「実務には使えるが、エンターテイメントを期待する対象ではない」という気持ちが強くなった。

それからは急速にコンピュータへの興味を失い、模型に興味が移っていった。



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それから3~4年ほどは、学校のコンピュータの授業でベーシックを少しやる程度で、ほとんど触ることもなかった。
そしてある仕事で、マニュアルを作る仕事があり、電気配線図を作るために、IBMのMICRO CADAMを使うことになった。


時代は、オブジェクト指向、C言語はすばらしい解決策か? という話題がPC雑誌に載る時代である。
5.25inchフロッピーはまだまだ現役の時代。

MICRO CADAMは元々はロッキード社が開発したCADソフトである。
直線と曲線を自在に使い、設計図を書くのに適していた。
片手にマウス代わりの「デジタイザ」を持ち、左手は専用のファンクションキーボードを使う。

デジタイザはマウスのようだが、タブレットのように絶対座標であり、CADには結構使い勝手がよかった。

仕事でやっているうちにコンピュータに少しだがまた興味が出てきた。

そのうち会社ですべてのマニュアルの版下と原稿を電子化するプロジェクトが始まった。
大きなコピー機ほどのスキャナとこれまた同サイズ程度のレーザーディスク書き込み装置が運び込まれ、富士通のPCを使って読み取り作業が続けられた。
そこで、読み取り後のイラストの修正、編集作業に使うために用いられたのが、SunのSPARC(おそらくMicroSPARC)だった。


見た目は通常のPCの1/3ほどの薄さで、これで何ができるのだろうかといぶかっていたが、みてびっくり。
3次元でしかもシェーディングされた、立体がスクリーンセーバーで動いているのだ。
コンピュータで初めて進歩を感じた。
実際に使ってみても、画面表示がきれいで、フォントがまるで印刷したもののような繊細さがあった。
そして英語しか使えないマシンなのに、使いやすい。


当時のPCでは比べものにならないほどのポテンシャルをもったマシンであることは、それほど詳しくなくても明らかだった。

ずいぶん後で知ったことだが、トイストーリーにはこのサンマイクロシステムのコンピュータが使われたという。
十分納得できる話だった。


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それからの話を書いてもいいのだが、いつの間にか話が自分のPC歴になっているので、もともと書きたかった本題に戻ることにする。

PCに嫌気がさしていたわけだが、それは30歳ぐらいまでは変わらなかった。
人と話す仕事をしようと思い、電話サポートの仕事について、そこでコンピュータに情報入力したり検索したりすることになる。
またお客さんのコンピュータのサポートなのでだんだん用語やコンピュータのくせのようなものがわかりかけてきた。

これからはコンピュータを知らなければ仕事にならない。
そう思い、リブレットを購入してコンピュータへの苦手意識を減らし、親近感を高めることにした。

週末は図書館にこもり、ハードウエアから、論理式、コンピュータの歴史などを勉強して徹底してコンピュータが何かということを史郎としたこともある。
苦手意識や嫌悪感を少しでも軽減しようとしたのだ。

そのおかげで、かなり苦手意識はなくなったが、完全には消えなかった。

いまでも、できることならPCにはさわらない生活がしたいと思うこともある。


この苦手意識というか、PCに対する嫌悪感が若干和らぐことが最近おきた。

Windowsのエアロである。

Vistaのときに話題になったが、自分はインターフェイスにアニメーションを追加したり、見た目をよくしたりするのにはほとんど興味がなかった。
むしろリソースの無駄遣いとしか思えなかった。

WindowsXPでもクラシックスタイルを使っており、おそらく WindowsNTのころからさほど代わり映えしないインターフェイスを使っている。
それは素早いレスポンスがほしいからで、特に困ることもなかった。

それに、CG屋はこうでないと仕事にならないだろうという考えをもっていた、今でもクラシックスタイルでないWindowsで仕事をしているCG屋をみると「こいつ大丈夫か?」と思ってしまう。


一方で、デザインを勉強したせいか、マン・マシン・インターフェイスには興味がある。
しかしそれは、PCを知らない人にも使いやすくするためのインターフェイスという部分であった。



今回Windows7を手に入れたが、マシン性能が十分なので、困るまではデフォルトのエアロのまま使ってみることにした。

当初はなれないせいもあって使いづらさもあったが、使っているうちになれてきた。
グラデーションやトランスペアレンシ、アニメーションなど、使っていて、みていて、楽しさもある。

そして、今はエアロも悪くないと思い始めた。
最初は無駄だと思っていたのだが、以前に比べてPCに面と向かい合う時のストレスが軽減されたように感じる。

そしてPCに対する嫌悪感もわずかだが減ってきた。

コンピュータのサポートを仕事にしていたこともあるので、そこそこ詳しいと自負していたが、そんな自分にとっても良い効果をもたらしているのだから、コンピュータをあまり知らない一般ユーザーにとってはかなり大きな要素となるのではないか?と思った。


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そのインターフェイスに当初から気を遣い続けたスティーブジョブスはすごい。
Appleは好きではないが、やっぱりこの点は認めるべきだろうなと思った。

コンピュータを知らなくても快適に操作ができて、コンピュータではなくて新たなシステムの恩恵が受けられるようになれるのは、一般顧客にとっては最重要である。

彼らはCG屋のように速度を最優先に据えているわけではない、その利便性にいかに容易に、快適にアクセスできるかと言うことが最優先なのである。

単純なことで、10数年以上前から頭ではわかっていたと思い込んでいたが、感覚的には理解していなかったのだろう。
UIによって、コンピュータがコンピュータの存在感を薄れさせ、そこに提供されるサービスを利用することに集中できる。

これはCGを勉強することとは、もしかしたら対極にあるPCの利用方法だろう。
自分の関心が向いていないと言うことは、本当に「見れども見えず、聞けども聞こえず」の状態になるのだなと少しだが反省した。


タッチパネルのコンピュータが自分にとって重要だと思っていたのは、この部分に関連があるのだろう。
もう少しiPhoneやiPadに心を開いてもいいかもしれない。

タッチパネルである以上、すべてはUIのデザイン(グラフィックだけでなく利便性なども含んだ意味でのデザイン)にかかってくる。
それには様々なトライ&エラーが必要で、iPhonのころから鍛えられているiPadには期待が持てる。

他社がタッチパネルでもっと性能の良いPCを出すだろうが、はたしてUIがiPadを超えられるのかどうかは、わからない。

今の自分としては、そのあたりを見極めてからでも買うのは、遅くはないかなとも思っている。

2010年6月2日水曜日

Apple、インターフェイス、PC その1

iPodはかなり多くの人に受け入れられているようだが、アプリなどをみていても思うのはそのインターフェイスの操作感が大きな役割を果たしているのだと思う。

自分は、基本的に、Appleの嘘をつく部分が好きではない。
実際には嘘をついているわけではないのだが、あまりにも絶妙すぎる。


風邪薬のコマーシャルで、「風が直る」とは言わないのと同じだ、よくCMで見られるウイルスが薬の作用で小さくなっていくアニメーション。
これも実は小さくなるだけで、 消えてしまったり死んでしまうところまでは見せていない。 
なにより風邪の諸症状の「緩和」としか言っていない。
これを風邪が治る薬と思い込むのは視聴者の勘違いであり、嘘ではない。
しかし、勘違いしやすい方向に作られているのは否めない。

こんなことを書くとかなり批判的に反論する人もいると思うが、ここは自分のブログなので、間違い承知で書くと、本当はそこそこのハードウエアなのに、 至上のもののように誤解させるマーケティングをしているように感じることがある。
どちらかというと理想的なことのみを述べており、ポジティブ面をやたら強調するアメリカ人らしいマーケティングと思ってしまう。

まぁMicrosoftでもそういう傾向はあり、販売広告に関するマーケティング自体がそういうものといえば、それまでである。
しかし、Appleには異質なものを感じてしまうのは自分だけだろうか?

で、そのマーケティングにまんまと乗せられて、Apple最高!と思っているアメリカ人一般ユーザーが多いのも、実は気に入らない。
あまりコンピュータのことを知らない一般ユーザーは、Apple最高!となりやすいのだろうか。
アメリカでは、Apple信奉者が多いのは閉口させられる。
冷静な議論以前に、Appleに間違いはないという感じがありありと出ている人もいる。
そんな人にいくら話しても間違いは後で修正されるか、ああそういうこともあったねと寛大だ。
それは他のPCでも普通だろうって思うんだけどw
 

こういうAppleへの偏見というか悪印象を持っているので、iPhoneも敬遠しているし、今回のiPadも多少傍観気味である。


なぜかというと、ほぼ実用的なものの、自分の理想には今一歩及ばないからと感じているから。


試してみればいいのだが、試すほどの予算がないので、ただの食わず嫌いかもしれない。


Appleに関して、肯定的に受け入れることができるのは、デザインの良さ。
それは「スタイリング」という狭義だけでなく、本来の「デザイン」という言葉が持つ意味においてである。
それはハードウエアとソフトのバランス、材質やスタイリングのバランスである。
ハードからソフトまで一貫した製作体制を持っている会社の強みである。

そしてもう一つというか、その中に含めてもいいのだが、「インターフェイス」がある。
私のMacに関する一つの固定した考えとして、インターフェイスが初心者にわかりやすいということがある。
これが複雑なことを考えるのが(大概においてさけようとする)アメリカ人の気質にはぴったりだったのがアメリカでMacが大きく受け入れられている理由かもしれない。
MicrosoftのOrigamiの規格が発表された時、やっと望むものが出るかもしれないという期待をした。

15年近く前に、初めてのWindowsPCを買ったが、それはリブレット70だった。
CPU 120Mhz
最大32MBのメモリ
重量850g
Windows95搭載
サイズ: 210mm(幅)×115mm(奥行)×34mm(高さ)
当時としては画期的なモバイルマシンであった。
当初より、コンピュータは持ち運んでこそ意義があると思っていたので最初のWindowsマシンはこれにした。

ときどき持ち運んでは、地図を使ったり、メモをとったり、翻訳に辞書を使ったりしていた。
現在のようにモバイル環境は整っていなかったのでほとんどがオフラインでの利用であった。

そのときの経験からモバイル端末は、
●重量500g以下希望(絶対1Kg以下)
●タッチパネル
●デスクトップ並みの性能
●インターネット接続
●できるだけ大きめのスクリーン、できればスクリーンのみ
という厳しい基準が自分の中にできあがった。
それでないと快適なモバイル環境は望めないからだ。

それからずっと待ち続け、上記のOrigamiの規格にタッチパネルが盛り込まれていて大いに期待していた。


それから数年後にマルチタッチのタッチパネル・インターフェイスが話題となり、できればマルチタッチがいいなと思い始めた。

そして、その後すぐにiPhoneが出た。

iPhone自体はPCの代わりにはならないので、そのタッチパネル中心の操作が世間にもたらす効果に期待していた。
効果が高ければ、PC業界にも波及する可能性があったからだ。
しかし、思ったよりPC業界は慎重で、タッチパネルが搭載されたのは一部のラップトップだけであり、マルチタッチに関しては、最近になってからである。

そんな中、iPadが出た。

上記をみていただければわかるように「デスクトップ並みの性能」というところを除けば、ほぼ条件を満たしている。

そしてiPhoneで培われた、マルチタッチのソフトウエア環境も整っている。
実は、最近はこのサイズのモバイルに大きな性能を求めるのは、自分が生きている間には無理かもしれないと悟ったw 
そこで求める性能をしぼったところ、Web、動画(HD)、電子書籍、辞書、テキスト、スケッチなどが使えればよしとすることにした。
欲を言えば、PCに接続してタブレット代わりに使えるようになる機能がほしいところ。


そんなことを考えているとiPadが発売された!これは「買い?!」かと思ったのだが、動画性能(フラッシュ)の問題と性能的に、もうちょっとほしいと思ったので、今ひとつ手がでないでいる。
おそらくリブレット70と比べたら比較にならないほどの高性能だとは思うのだが、お金を払って買うには今ひとつ何かほしい。
おそらく200ドルなら即買いである。

(続く)

2010年6月1日火曜日

新たな旅立ち

今日というか、もう昨日になってしまったが、メモリアル・デイの日、日本へ帰国する友達家族を見送りにLA空港へ行ってきた。 

子供がまだ1歳になるかならないかの頃、うちの嫁さんが、近くの公園で偶然知り合ったママ友。
それから家族ぐるみのつきあいになり、約4年。
家が近くだったことや、とても良いご家族で、いつしか頼り頼られ、家族のようになっていた。
どちらも初めての子育てで、いろいろなことで悩み、喜び、子供成長を見守ってきた。
子供たちも私に大変なついてくれていた。


LA空港には別れを惜しむ人たちのママ友家族が集まり、涙ながらの別れを告げた。

別れ際、最後の挨拶をと思い握手やハグをしたが、少し涙ぐんでしまい、なにも言葉が出ず、ただただ相手の言うことに頷くだけしかできなかった。
別れ際まで、もう返ってこない(少なくとも数年は)ということに実感がわいていなかった。



わからないとは言いつつも、ずっと一緒にいるという感じがしていたのだが、今回、ご家族の不幸があり、急遽帰国が決まった。
これで子供が1歳からのつきあいをさせていただいた家族は、ほとんどがLAから去って言ってしまい、寂しさと、楽しい思い出が残る。

日本に帰ったときに医療のことや、自然のことなどから子供の教育は日本のほうがよいのだろうか?と思った部分もあったが、親しい人たちが日本に帰っていくのをみると、自分も帰ろうかという気持ちにさせられてしまう。

いくら親しくとも、人それぞれ自分の人生があり、その人生をそれぞれに一生懸命いきるしかない。

まだ来年どうなるかわからないが、自分は自分の目の前に差し出された人生を一生懸命生きるしかない。
そして帰国していった家族も同様だ、そこには新しい人生が待ち受けていて、これから苦労することも多いだろう。
人生の厳しさと、ここの人生がからみあういろいろな出会いのすばらしさを、しみじみと考えさせられた。
お互いその厳しい人生を生き抜きつぎもまた笑顔であえることを願う。


帰り道、高速道路の車の中で、子供が「ねぇ○○ちゃん、もう返ってこないの?」と聞いてきた。
わかりやすく何度か説明をしてきたが、親しい人の別れというものを経験したことがなかったので、その実感がわかないんだろう。

自分も小さいときからの友達だった隣の家の子が小学校1年で転校していった。
小さいながらに、幼少期を一緒に過ごした友達は、最高の友達だ。
今では、連絡もつかないが、今もその子のことは思い出す。
最後にあったのは小学3年ぐらいの時に一時親戚の家に立ち寄ったときだった。

うちの子は、東京に帰るたびにあえるだろうから、まるっきりの別れというわけでもないが、文化の違う中での成長が、互いの溝を作らないだろうか?という心配もしている。
そういう溝をものともしない人間に育ってほしいことを願うばかりである。

メモ:黒澤明対談

 黒澤明と北野武、そして宮崎駿との対談をYoutubeで見つけたので、後でみるためにメモ。

もともと、それほど時代劇が好きな方ではないので、黒澤明作品でまともに見たのは、「天国と地獄」ぐらい。
「天国と地獄」では、前半のまるで舞台演劇のような撮影から、後半のテンポのよいカメラとストーリー展開(カット)は、こんな映像表現があるのか?!と驚かされた。



個人的には、北野武に思い入れはなく、作品も「座頭市」ぐらいしかみたことがない。
ちょっと暴力表現がすぎるところがどうしても敬遠してしまうところだが、「座頭市」は、おもしろい表現だなと思うことはあった。

まぁ感動とまではいってないが、北野武が言っていることは正論というか真意をついていると思うことが時々ある。


 人生に幸せなんて求めること自体勘違いなんだよ。
世間じゃよく、どうせ死ぬんだから楽しく生きようなんて言うけどオイラは逆で
どうせ後で死んで身軽になるんだから、生きているうちにヒドイ目に会おう。
つらく生きようと思っている。(北野武)


これは言葉をもう少し選べばいいのにとも思うが、むしろこの表現の方がわかりやすのかもしれない。
まさに人生を生きる姿勢の大切さを表していると思う。
「楽しく生きる」ようにすると、どうしても困難や問題にネガティブになり、避けようとする傾向が生まれる。
 しかしヒドイ目に遭おうとすれば、困難や問題に自ら飛び込んでいき、人生に身を任せ最善を生み出そうという創造力が生まれる。
これはまさにポジティブな人生の生き方だと思う。



「究極の映画とは、10枚の写真だけで構成される映画であり、回ってるフィルムをピタッと止めたときに、2時間の映画の中の何十万というコマの中の任意の 1コマが美しいのが理想だと思う。例えば女性のヌードを撮影するってのも、ただ裸の女が出てるだけではなく、ストーリーの中で女が脱いでいくというものであり、グラビアは映画の原型みたいなものだと思う」と語っている(北野武)Wikipedia)

意味:
 任意(にんい)とは「自由意思による」という意味で、思うままに任せることである。
例えば任意投票は投票を行うか否かを自らの意思で決め、任意出頭は出頭する否かを本人の意思に委ねる。
 (1)(規則や定めなどによらず)その者の思いにまかせる・こと(さま)。
 (2)〔数〕 特別な選び方をしないこと。あらゆる場合、すべての場合というのと同義にも用いる。


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 北野武 黒澤明(Youtube)

Part1


Part2


Part3





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宮崎駿 黒澤明
Part1


Part2


Part3


Part4


Part5(Link)

Part6


Part7


Part8


Part9


Part10