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2010年11月6日土曜日

MIMデザイン事務所の思い出 (その2)

今年の2月頃「MIMデザイン事務所の思い出」というエントリを書いたが、そのエントリに対して当時のMIMデザインを知るエバアンタレスさんよりコメントをいただいた。

懐かしさと共に、当時の状況を知る人とつながりが持てたことがとてもうれしくなり、しばしMIMデザインに関してググってみたところ、新たな情報をいくつか見つけた。

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まず、みつけたのが高須孝氏のサイト「高須孝の手仕事BOOK
このプロファイルのページで、社長の三村建治氏とのつながりが書かれている。

ここで得た情報は、三村氏にはお兄さんがいらっしゃることと、そこにはエバ カーズという会社とのつながりがあるということ。
エバ カーズについてはまったくいままで聞いたこともなかったが、バックグラウンドを見るとその筋では有名なところらしい。
確認を取ったわけではありませんが、今回コメントをくださったエバアンタレスさんのハンドル名の元になったのかも知れませんね。


上記の高須孝氏のヒストリページに、MIMデザインでみたのゲーム筐体と、なんと私がMIMデザインで働いたときに作られていたMR2ベースのフェラーリF40の写真が!



さらに調べてみると、このMR2ベースのF40はEVA E20と言う名称だとわかった。
ここから検索して画像をいくつか見つけることができた。

MIMで働いていたときはガレージの一番奥にサーフェイスが吹かれただけのグレイの状態でおかれていた、ほぼ完成状態で、働き始めて数日後に型どり業者がきててきぱきとFRPで型どりをしていった。
FRPで型どりをするのに驚いたのもそうだが、できあがったクルマにここまでFRPを塗りたくるなど失敗がこわくてとてもまねできないと思った。

販売したのはエバのほうからで、当時これがMIMデザインの片隅でつくられていたのは、場所を貸していたか、片手間の協力だったのかもしれない。(ちなみにMIMデザインでは、当時、原寸スケールのコンセプトカーを作る作業があり、そちらがメインだった。)

その後のどうなったは知らず、外装パーツとして販売されたのだと思っていた。
そういえばクルマ雑誌で広告を見たかも知れないが、はっきりとは覚えていない。
今回見つけたいくつかのサイトを見るとコンプリートカーとして販売されたらしい。
横幅を少しつめたようなかわいらしいF40に仕上がっている。

生産台数2台で、完成度の高さ故にフェラーリ社から訴えられて型も潰されたという話も?
(これに関しては後ほど)
皮肉にも、本家F40よりも稀少なものになっている。


というのは、一台はこちら(abikobase)



そしてもう一台は、白兎さんという方が所有するこちら(HIGH-GEARed's)(2004年12月)

このサイトではこのクルマの細部に至る設計の良さが指摘されているが、エバという会社の由来や、開発に携わった人達を考えれば納得がいく。


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しかしこの生産台数二台というのには少し疑問がある。
こちら(KOJI's Dialy
これと同じクルマと思われるものが、
ここここにも
1989年(平成1年)の優秀賞ということなので、ちょうどMIMデザインをあきらめ、広島で就職した時期と一致する。あの後すぐに販売されたらしい。
ボディーにポリカーボネイトを使用してあったとは。当時としてはかなり贅沢。


それからもう一台の写真はこちら(Terra2 Import

これらは、同一のクルマがペイントし直されただけの可能性もあるが少なくとも3台は存在していたように感じる。

とおもっていろいろ見ていたらサイト(公認仕様!?「EVA E20>フェラーリF40」 )にある書き込みが。

なるほど、3台製作されて1台は全損。納得です。
しかも訴えられたというのもデマっぽい。
結局は売れなかったので3台しか作られなかったという感じなのかも知れません。
どちらにしても稀少さにはかわりありません。


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さて、三村建治氏、高須孝氏、そして三村氏のお兄さんである三村信昭氏は後に日本初のスーパーカー童夢-零を作り出すことになった。(三村建治氏はモノコックを設計)
いまは走れないらしいが、GT4でその走っている姿を見ることが出来る。

以下の動画は全く関係ないですが1970年のランチャー・ストラトス・ゼロ




当時からランチャはフェラーリのエンジンを使ってたんですね。

余談ですがもうストラスという名称はフェノメノン社が所有しておりランチャ社我使うことは出来ないんですよね。だからランチャ・ストラトスという名称のクルマはよほどのことがない限りもう作られることはないのかな。




童夢-零の生産台数は1台である。
参照HP: SUPERCAR NET「童夢」


有料動画だが、ニコニコチャンネルのMondo TVで
幻のスーパーカー「童夢-零」を追え!!」という番組があるらしい。
この中に三村氏が登場するのかどうかわからないが一度見てみたい。


デイリーポータルZでもおもしろい記事があった。
デイリーポータルZ:「CFRPでドカヘルを作る@童夢」

そういえば、MIMデザインでも当時はまだ最先端で珍しかったカーボンファイバーを使って作業する部分もあった。
会社だからこんなのも大量に買えるのかなと思うぐらいたくさんあったので、「カーボンファイバーって聞いてたほど高くないのかもな~」 などと思ったりもした。
実は、童夢の製作に関わった所だからこそ、その価値をよくわかっており、当時からカーボンファイバーを普通に使っていたのかも知れない。



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そして、三村建治氏に関して書かれたWikipediaのページも見つけることができた。

前回は、「建治」ではなく「健治」でさがしていたので見つけることが出来なかったらしい。
しかしデザイナー以外の経歴もすごい,1970年代に20代でプライベートF1チームを組織し、プライベートコントラクターが海外のF1レースに参加したのは2010年現在、そのマキF1チームのみだと言う。
マキF1当時のデザインに関してはこちらに少し触れれている。
参照:M.D.O.R.C.「マキF101」


エバアンタレスさんから、ノスタルジックヒーロー誌で、三村建治氏の連載がのっていると教えて頂いたが、こちらもレースに関する物のようだ。

ノスタルジックヒーロー 2010年 08月号「連載・日本レース史の断章 三村建治[前半]」
ノスタルジックヒーロー 2010年 10月号「連載 日本レース史の断章 三村建治[後半]」


今にして思えば、そのような環境で育った三村氏は、自分のような普通の環境で育った人間には理解不能な部分があり、把握できなかった。
なんというか型にはまらないというか、限界をもうけないというか。
自分で自分の発想を否定しないというか。
当時は親の価値観からぬけだせていなかった自分には、非常識的な人間とも思えた。
(別に人に迷惑をかけるとか、不快にするとかという意味ではない)
今でもうまく表現できないが、なにか思いついたことを大切にし、そのままストレートに表現しようとするために力を使える人という感じ。
反面、子供っぽい熱意をみせることもあった。作っている物に関する興味はまるで子供がプラモデルを作っているかのような印象だった。

クリエイターなら誰でもそうなんだろうが、田舎の工業デザイン科を卒業したばかりの自分には、今までに見たことがないタイプだった。

今思えば、少しの間だが、それを肌で感じて影響を受けた部分もあるように思う。
そして、彼のクリエイターとしての人間性のすばらしさと共に、自分の限界はなんて小さいのだろうと思う。足下にも及ばない。

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