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2009年3月31日火曜日

現代教育とCG

現代の教育は工業化時代にできたもの。
アルビン・トフラーの言う第三の波の時代である現代にはすでに時代遅れとなっているという。
参考:はてなQuestion 


実際にどのあたりがそうなのか、わかるほど勉強はしていないが、
第三の波のキーワードとして情報を中心として、分散化、多様化、個性化といった単語がよく聞かれる。

そういったキーワードから考えてみると現代教育においては「より容易に」「大量に」がキーワードで、
教育が目指すものにとどまらず、教育システム自体が、大量生産システムになっている。

それは教育する側は楽であるが、
教育される側は個々人の能力の差は別として一律に扱う。

教育する側が楽になると言うのは、どこかで何かが省略されているから楽になっているだけである。
コンピュータ工学的な考え方をすればサンプリングにより、何かが省かれている。
そして、その省かれたものは、個々人の努力で埋めるしかない。

産業革命以前である農業時代の教育がすぐれたものであったのかというと、
それはわからない。
ただ、現代教育のシステムによって失われたものはあることは確かだ。
情報革命以後のこれからの社会は、より個性が問われる時代となりつつある。
その個性をつぶしていたのが現代の学校教育ということは多く議論されてきた。
だからといって、個性を磨くだけの教育基盤や社会が整っているわけではない。

そのせいか、シュタイナー教育モンテッソーリ教育サドベリースクールといった個々を大切にする教育が最近、日本でも注目されている。

2~3年前まではインターネットで探してもそれほど詳しい情報はみつからなかったが、いまでは検索すると、結構詳しい情報がすぐにみつかるようになってきたことからも一般的に注目されていることがわかる。

モンテッソーリ教育は、早期教育として誤解されたり、既存のシステマティックな教育としてみられることも多いが、実際先生方は非常に気を配る必要があり、個性をしっかり見抜いていないとうまく機能させることは難しい教育方法でもある。
シュタイナーも宗教的な雰囲気から敬遠する人もいるが、宗教とは関係なく精神面を大切に扱うことにとても注意をはらっている教育だ。
サドベリースクールについては、近くにないので見学したことも人の評価をきいたこともないが、上記二つとは、また違った意味で、個々の判断を大切にしている。

この中でもシュタイナー教育は芸術と非常に密着した教育方法がとられている。
音楽、絵、詩、創作が教育の家庭において欠かせないものになっており、昔ながらの人から人へ伝えるという教育方法に徹している。
この教育方法においては、TVやオーディオといった、メディアを使った手段は敬遠される。

芸術があらゆる局面で、教育には欠かせないものとして使われているが、芸術学校ではない。
展示会をひらくようなすばらしい芸術作品をつくることを目的としているわけではなく、絵を描いたりものを作ったり、詩を歌ったり、音楽を奏でたり、ダンスを踊るといった行為が大切にされている。
そういったことは、心の中から発したものであり、子ども達へ伝えられる。
そして子ども達も自分の心から発するものを大切にして芸術という手段を通して自分を外に出す。
数学の勉強も、簡単なゲームで体を動かすことからはじめ、教科書はなくすべて先生が黒板に色とりどりのチョークで書いたものを自分のノートの書き写し、それが教科書となる。

できた作品の出来、不出来を評価するわけではないので、成績表もない。
ただ、期の終わりには先生からの詳しいレポートが届くそうだ。

そして、個々人の個性が大切にされ、先生も生徒の精神的成長を非常に注意深く見守っている。

もちろん、人によって合う合わないはあると思う。
とくに現代社会では、シュタイナー教育とそぐわないものもあるので、子どもの環境によっては成長に従い、シュタイナー的なものに違和感を感じ始める子どももいるという。

しかし、自分に合うのならば、こういった学校で育つことができれば、個性を否定することなく、そして恥ずかしがらずに自分の感じていることを表に出すことができる人になるのではないかと思う。


社会が厳しくなってきたとき、教育から一番最初に外されるものは芸術だという話をどこかのブログで読んだことがある。(もう一度探したが、そのブログを見つけることができないでいる)
社会の動向と関係があるのかどうかはわからないが、アメリカの小中学校には、図画工作という授業はない(一般的な公立校の話で、すべての学校がそうというわけではない)そうで、なんとなく教育における危機感を感じる。
(反面、学校が終わった後にアフタースクールとして美術を習いに行くことも、よくあるようだ)

実際のところ、芸術は、コミュニケーションであり、その人の内部から外へでていくものである。

CGを学校で勉強するときに、最初は、スケッチなどをするが、そのスケッチにしても、技術を鍛えるためではなく、その人の目に映り心象となったものを外に出す手段である。

学校の授業できまっているからとか、仕事で必要だからやるという目的は、芸術的な作業の時にはいったん脇に置いておく必要があるのではないかと思う。

まず何かを描いてみたいと思う、それは絵の具を使ってかもしれないし、鉛筆かもしれない。
そして描くことがおもしろいからいろいろと繰り返し書いているウチに、細かいところまで気になるようになる。
そしてその細かいことまで自分が表現したいように表現を加えていく。
その繰り返しで上達していくというのが本来の姿だと思う。

もちろん、スケッチが上達していないと伝えられないものがあり、そのレベルを望むからスケッチの練習をがんばるという一面もあるだろう。
でも本来の姿をわすれていては、本来の目的である「芸術」にも到達できないだろうし、そこにコミュニケーションするものがなければ、スケッチをしていても楽しくはないだろう。

本来の姿で作られた芸術作品は何か伝わるものがある。
それは技術のレベルとはあまり関係ない。
そして評価とも関係ない。
他社の評価を気にして作られた作品は、すでに本人のものではなく特定もしくは不特定な誰かの心から出たものであり、本人のから出たものではない。

「そういったものは、後からついてくるものだ」といつも言えるような状態で、芸術と関わることが大切だと思う。
それは犯されざる領域だろう。


芸術は技術と深く関係しているが、技術から始まるものではない。
しかし、あいにくCGはすべて技術と関係している。
そこに落とし穴があるように思う。

絵の具で絵を描くにしても、技術を勉強すれば、芸術が達成できると考えている人が多い。
そして、技術を習うことに一生懸命だ。
とくに、日本はその傾向が強いのかもしれない。
たくさんのHowTo本、学校などであふれている。

しかし絵の具をつかって絵を描くというのもコンピュータをつかうというのも一つの手段でしかないし、CGソフトはToolだ。

Melスクリプトを勉強するとき、いつもこの点に留意し、
自分の表現したいことができるためのMelを勉強するように心がけるようにしている。
 

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