論理演算にはAND,OR,NOTの3つしかないのはなぜか?
「真の哲学体系を求めて Ver.2」というサイトの「他者の論理学」に詳しい説明がある。
まずは基本的な演算記号について
第3節 論理学においての文と接続詞
こうした文を論理学では、たとえば、
p、q、r、s、t
などのような記号にしています。
この記号同士の関係を見ようとするのが論理学です。
しかし、こうした記号だけでは、何も始まりません。
私たちは、たったひとつの文だけで何かを表現しようとはしません。
文と文をつなげることで、さまざまな表現を可能にしています。
たとえばこんな場合です。
p → マッチ棒をする。
q → マッチ棒に火がつく。
一般的にマッチをすればマッチ棒に火がつきます。
ただ文だけでは、こうした文と文の関係が扱えません。
文と文をつなげる接続詞に相当するものがどうしてもなくてはいけません。
論理学を真に論理学たらしめているのは、文と文をつなぐ働きを見ようとするところなのです。
こうした文と文をつなぐ接続詞として、論理学では、基本的に以下のものだけを認めています。
「~でない」「かつ」「または」「~ならば」
論理学では、基本的に上記の四つしか接続詞として使用しません。
なぜ、論理学においては上記のものしか接続詞として認めないのか、不思議に思ったことはありませんか。
ここでは、「ならば」を含めているので4つという事になっているが、論理演算でなく、論理学だと4つになるのか、そのへんは今は追求せず、先へ進むことにする。
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第4節 論理学とさまざまな接続詞
なぜ、論理学においては、「しかし」という接続詞がないのでしょうか。
私は安いものがほしい。かつ私は価値あるものがほしい。
この場合、価値あるだけではだめです。安いだけでもだめです。
安くて、しかも価値あるものでなくてはいけないのです。
このように”かつ”という接続詞においては、前の文と後の文がどうしても必要になります。
そうです。”しかし”もまったく同じです。
このように前の文と後の文が同時に当てはまって初めて意味を持つという点はまったく同じです。
すなわち、論理学においては、”しかし”も”かつ”も同じ接続詞の仲間として考えられているのです。
”かつ”と”しかし”では、意味が違うのに、なぜこのようなことになるのでしょうか。
論理学では、ただ文が真であるか、偽であるか、そして接続詞を加えると、そうした真とか偽がどのように変化していくかを見る学問です。
言語の辞書的意味にまで深く立ち入って見ているわけではありません。
働きの形式が同様なものとして考えられるならば、ひとつにくくってしまうのです。
このことで、”しかし”が”かつ”の中に含まれてしまっているのです。
このように、ある接続詞の前の文と後の文が同時になりたたなくては意味をなさないような接続詞はすべて、この”かつ”と同様な働きをするものとして一括されてしまっているのです。
また、ある接続詞の前の文と後の文のどちらか一方だけ、意味をなしていれば、意味をなす接続詞は、すべて”または”と同様な働きをするものとして一括されてしまっているのです。
このように、一般的に言語には接続詞がいろいろありますが、そうした接続詞も結局、~でない、かつ、または、~ならばの四つのうちのどれかにあてはまってしまうということなのです。
このサイトは論理学の基礎を学ぶにはとてもよい。
わかりやすく説明されている。
http://www6.plala.or.jp/swansong/000008tetugakumokuji.html
2009年2月24日火曜日
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