7月1日のエントリ「コンテンツ+キャリアという考え方」では、明和電機社長の発言からいろいろと発展させて考えていたが、どうしてもしっくりこない部分があった。
それが先日ふとしたことで、すっきりした。
それは会社の帰り道に前のクルマのバンパーに貼ってあるステッカーを見たときだった。
それはLAでも最大のレコード/CDショップで中古の売買もしている「Amoeba Music」というショップのステッカーだった。
時々、音楽イベントも開くほどの大きなところで、MP3全盛の今でも健全なのかな?とそのステッカーをみたときにふと、明和電機の社長、土佐信道氏がのべていたことを思い出した。
強引な言い方をすると、これまで、プラスチックに付加価値をつけて高く売るプラスチック販売会社が、「レコード会社」であった。
紙に付加価値をつけて高く売る紙販売業者が「出版業界」だった。
それは「コンテンツ(情報)」と「キャリアー(物質)」が分離不可能だったから成り立つ商売でしたが、デジタル時代は、それが個人レベルで簡単に分離できるようになってしまった。
ここで同じくコンテンツとプラスチックが融合した「オモチャ」を見てみると、現時点ではそれが分離できない。
「ああ、自分はオモチャを作れてよかった・・・」と思うのは、分離できないゆえ、複製するしかなく、それが即収入になることであろう。
ここでは、おもちゃを「コンテンツとキャリアーが融合した」とかいてあったが、それは今ひとつ自分にはピンとこなかったので気になっていたのだ。
CDは音楽というコンテンツをプラスチックの媒体で、配布する。
音楽というコンテンツに接触するためにかならずCDとCDプレイヤーの存在が必要で、物質的な制限を生じさせる。
生の演奏が聴きたければ、その場所へ特定の時間に行く必要がある。
時間と場所が制限される。 制限されるからこそ価値がある。
一方、MP3はプレイヤーのみならず、パソコンでも再生でき、理論的には世界のどこからでもアクセス可能であり、物質的なターミナル(末端)に依存しない。
コンテンツは、こうして制限があり、制限がある媒体を通じて配布されるからこそ、ある価値が生じていたのではないかと思う。
そして、人々はそれにお金を払っていたのではないかと思った。
コンピュータによってその制限が取り払われ、制限がないがゆえに価値が下がる。
いわば希少価値がなくなってしまうということになる。
これからも、コンピュータによって制限が取り払われるものは、どんどん音楽や映画の後を追うことになるのだろう。
さて、おもちゃはどうか?
おもちゃはコンテンツを伝えることだけを目的として作られた媒体ではない。
なんらかのコンテンツが得られることだけを期待しておもちゃを買うことは無い。
(ここで、ゲームはおもちゃには含めていない)
確かに思想やアイデアをつたえることもできるが、CDやコンサートのように、純粋にコンテンツを伝えるためだけに存在しているわけではない。
むしろ、おもちゃ自体をきっかけに、様々なストーリーや遊びといった別のコンテンツを生み出す役割をしている。
おもちゃにコンテンツが存在するとしても、それは限定、分離されたものではない。
音楽や映画のように具体的に限定された内容ではなく、シンボル化され、ユーザーの自由度が加えることができる程度になっていると思う。
明和電機社長の「コンテンツとプラスチックが融合した「オモチャ」」という考え方がどうもしっくりこなかったのはこの部分で、おもちゃは「コンテンツと媒体」という二要素に分類したり音楽と比較するのは間違っているか、すくなくとも土俵が違うような感じがしていたからだということがわかった。
どちらかというと、社長が言っている者にぴったり来るのは絵画や彫刻ではないかと思う。
作者の意図、思想、感情(コンテンツ)を伝えるものが絵画や彫刻というキャリアである。
そのキャリアに人々はお金を払うが、そのコンテンツは分離不可能である。
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