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2010年2月9日火曜日

MIMデザイン事務所の思い出

今日、非常にビックリしたことがあった。


今から20年以上も前のことである。
工業デザインの学校を卒業したあと、地元の企業へ就職したもののデザインらしい仕事もなく、1年で辞めた。
デザイナーでもある先生が、卒業前に「つてがないとこの業界では仕事は出来ない」と言う言葉が耳の奥に残っていた。

そのころ、カースタイリングという雑誌を読んでいたが、そこでデザイナー募集の公告を目にした。
会社名は「MIMデザイン
ホームページのヒストリをみて当時作っていたKenwoodの電話機のデザインをみると、会社が出来て2年目ぐらい(1987年)だったと思う。

さっそく連絡したところ、1週間ほど試用してもらえるとのことで、即座に飛びついた。
会社は横浜の緑区にあった。
6畳ほどのアパートを会社が借りていてその中で社員6人ほどが寝泊まりしていた。
会社自体は、倉庫のような建物で、一階が大きめのガレージで、そこで後述の実物大スケールの車のモデルなどを作る工房となっている。
二階は食事をしたりミーティングをする場所と事務の人がいるばしょ。
そして実際に鉛筆やマーカーでデザインをするデザイナーの場所がった。


デザイナーとしての応募だったので、当然、マーカーなどでのレンダリングだと思っていたら、実際の作業はモデリングだった。着替えはスーツとシャツしか持って行っていなかったが、モデリングは大好きだったので、早速、その日から作業開始した。

作っていたのは実物大スケールの、車のクレイモデル。
1ヶ月後の東京モーターショウに出すコンセプトモデルということで、作業は突貫工事中だった。

デザインは洗練されていて、とてもすっきりしていた。
スチールの骨組みに木枠で大体の形を作り、スタイロフォームで隙間を埋め、ポリパテをかさねて、あとは削りまくる。
当時ははやりだった、有機的な曲線を内装に取り入れていた。
その車の窓ガラスをアクリルの成形で作るため、雄型をつくるため、ガラスの形状をとった雌型の裏に、厚さ5mmほどのワックスシートをすきまなく敷き詰め、その上からグラスファイバーをしきつめながらFRPをぬっていく。
FRPをはけでぬり、空気抜きのためのブラシのようなローラーでならしていく。
いくらか作業を進めたときに先輩から「そんなにもたもたやってたら固まってしまう。手でやるんだよ!」とおしかりを受け、すぐに手で作業をした。
ただ気づいたときにはすでに遅く、一部の角には、FRPが水たまりのようにかたまって、分厚い層ができてしまった。
多少青ざめていたら、そのときたまたま別作業できていた型どり専門業者の人がみてくれて、「大丈夫」と言ってくれた。
その日は、目に見えないガラスの繊維が手にささっていたため手を洗うだけでひどくちくちくした。

他にも1/4スケールのFRPモデルの制作手伝いをした。(多分ホームページギャラリーでscale modelの一つ)
これもまたなぜか窓ガラスの部分、アクリルを成型したパーツ。
ケガいた線にそって、バンドソー(ベルト状ののこぎり、糸鋸の往復運動と違い、のこぎりの刃自体がベルトのようになっていて回転する)で切るように言われて作業を開始。
1分もしないころ「バキッ!」という音がして、あわててのこぎりを止めた。
指示をくれた人があわててこちらへむかってきて「ああ、これで切るときは、切ると言うより熱で溶かしながら切るんだよね。言うの忘れてた」と責める様子もない。
別の人と、そのパーツを見て、「これ大丈夫かな?」と相談している。
どうやら予備パーツはないらしい。
幸い約1mm手前でひび割れはとまっており、先輩がそれ以上ヒビが広がらないように、ヒビの先端へドリルで穴をあけてくれた。
そのパーツをまたこちらにわたしてくる。作業を続けるようにとのことだ。
失敗してもすぐにチャンスをくれたのだ。怖くもあったが、今思えばすばらしいことだったと思う。

他にも実際に射撃して、球が当たると得点ボードに点数が表示される、今で言うペイントボールとデジタルの融合したようなシステムを作っていた。
このライフルのモデリングで、サンドペーパーがけをしたりした。
このシステムには短銃もあり、すべてエアガンだったが、二階の休憩所に行ってみんなで試し撃ちをした。
10m離れたところに缶を起き、たばこを立ててみんだでうったがなかなか当たらない、自分の順番が来たときになんと一発で命中。
おどろいたのは自分のほうで、この銃の精度はなかなかのものだった。



時間があるときにいろいろと工房にある物をみせてもらった。
当時ゲームセンターで出たばかりのSEGAハングオン(バイク型ゲーム機)の原型。
他にも有名なバイクレーサーのカウルをデザインしたりレーシングカーのデザインもしているという。
フェラーリのF40がでてしばらくしたころで、会社の片隅にはパテなどを使い、外観をF40のスタイルにしたMR2があった。

これはMR2改造キットの原型で、このようなキットを当時はいくつかの会社がだしていた。
よくできてはいるが、MR2が元になるので若干横幅が狭く、ぽっちゃりした感じはする。
先に述べた型どり専門業者は、この原型をFRPで型どりにきた人達であり、FRPのプロである。
作業を見るとさっさとすすめ、瞬く間に半分の型を作ってしまった。


まぁ、そんなこんなで1週間はすぐにすぎた。
遅くなったときは社長が来るまで寮へ送ってくれたこともあった。
あまり多くを語る人ではなく、自分の偉業をはなすことなどは皆無であり、ただ何か良い仕事がはいると純粋に喜んでいたことを思い出す。
そして、駄目とも良いとも言わず、
「何がやりたいの?」と聞かれたので「家電がやりたい」と答えたら、「車はいいよ、電子機器関係もあるし、すべてのものが含まれているから」という。
特に押しつけるつもりはなく、本当に言葉の通りであることが感じられた。
東京生まれで、横浜にデザイン事務所をもつ、その若い社長(おそらく当時30代)は、いなか育ちの自分からみると、かっこよくて、都会的で、洗練されている、反面、日常作法など伝統的な部分からは外れており、どことなくあたたかみを感じにくかった。


また、口にはしなかったが当時は、デザインという仕事に疑問を持っていた。
市場調査により顧客の望む物を作るデザインだが、そこには環境への配慮、本当に顧客のことを考えた配慮はなく、
あくまでもうけが出る程度に要望を取り入れると言うが主流だった。
(環境問題もTVなどで、取り上げられ始めたばかりだった)
ようするに家電も実のところ、そういう意味では、疑問をもっており、そういう疑問を持つ前には好きだった分野を答えただけだった。
車に関しては、お金やいろいろな材料が贅沢につぎ込まれており、そんな世界へ入り込む気にはなれなかった。

話がそれたが最終日には「もし、やる気があるならうちはOKだよ」と言ってくれた。

また、その前夜には、制作チームのリーダー的な存在の先輩と、誰もいない作業場で二人で話をする機会もあった。
「うちはどう?」と聞かれた。
嘘は言いたくなかったので、「う~ん」「ちょっと合わない人がいるんで」と答えた。
「ああ○○君ね、ちょっと変わっているから」とフォローしてくれたが。
仮にその人を、ここではA君とする。
A君はかわりもので、たまに感情的になったり自分勝手な行動を取るためみんなから、多少いやがられていた。
そして、なかにはA君とけんかするひともいた。
自分がイヤだったのは、A君ではない。A君は変わり者だが自分なりに一生懸命やっている。
そのA君とちゃんと話をしないで、あたまから対抗したり、陰で悪口を言って関わり合いを持とうとしないという行動をとる人達が好きになれなかったのだ。
当時は色々、友達関係で悩みもあったので、それが反映したのかもしれない。
(悩みと言っても自分が村八分にされるとか、いじめられるとかではなく、友達にそういうことをされている人がいたということです)
とりあえずその先輩は、「まぁほかのやつはいいやつ多いから、大丈夫だよ」といってくれた。
今思えば、優しい声を掛けてくれる人だった。



結果的には、その申し出をうけることはなかった。
その多少複雑な人間関係の中、職場も狭い寮も時間を共有して生きていく自信がなかった。
そして「デザイン」ということに、もっと自然環境を考え、売るためだけに「スタイリング」を重視するだけのプロダクトではなく本当に意味のあるプロダクトを作る作業を求めていた。
そして、モデリング(は楽しいが)ではなく、デザインの現場(マーカーなどで描く作業)を求めていた。
MIMデザインでは、すでに(自分より若い)人がデザイン作業を任されており、社長は一人で十分と考えていたようだった。
ちなみに当時はケンウッドのデザインをしていて、いくつか見せてくれた。



後に、その時の話を、学生時代の先生に話したら、デザインを諦めたのかと思っていたらしく、一人でそこまでできたことに驚いていた。
当時の同級生は、マツダやJVCに入社、いまでは独立してJIDAの会員になっているやつも居る。

自分はいまだに、貯金もなく、来月の心配をする生活だ。
しかし自分の人生を自分で選ぶことは、この前の会社を辞めることから始まり、ジンクス(自分ではデザインの世界へ入れない)を破ることができる自信はこのMIMデザインへ行ったときについたと思う。 良い勉強だったかどうかはわからないが、無駄ではなかったと思う。



さて、研修中に、「MIMデザイン」ってどんな意味があるんですか?ときいてみた。
「ああ社長の名前、Mimuraからとってるんだよ」ということであった。
デザイナーなのにあまり飾り気もなく、ストレートw

長くなったがこれがMIMデザインに関する過去の経験である。
そして、社長のことは多くはわからず、まぁそこそこ業界では活躍している人なんだろうなという認識しかなかった。


そして今日、このデザイン会社のことをふと思い出しインターネットで検索してみたら、こんな記事を見つけた。
http://conceptcar1.blogspot.com/2009/11/suzusho-supasse-v-super-sportcar.html

確かにデザインの雰囲気とかはあのとき感じた社長のセンスにマッチする。
会社が大きくなったのかなと思った。

冒頭に書いたように、驚いたのは、社長の経歴だった。
そこには童夢ゼロに関わったと書いてある。ことだ。
そんな話は当時まったく聞いてなかった。


童夢ゼロは、スーパーカーブームがやや下火になったころに表れた国産スポーツカーで、市販をめざしたが許可が取れず販売されることはなかった。
そのため童夢ゼロは幻のスーパーカーとされている。 (開発裏話が当時マンガにもなっていた。)

Wikipediaをみると確かに「モノコックは三村建治」となっている。

ホームページのヒストリを見ると、「1978年、(株)童夢の専務取締役に就任。日本初の輸出向けスーパースポーツカー   DOME-ZERO のデザイン、開発に携わる」と書いてある。

まったく知らなかった。 驚いた。
童夢ゼロなんて当時としては、あこがれの世界の話だった。
まったく自分には縁のない世界だとさえ思っていた。
その童夢ゼロを開発した人の会社で働き、本人と会話をしていた。まったくそうとは知らずに...。

当時、彼が童夢ゼロを開発した人達の一人だと知っていたら、もしかしたら自分の運命は違っていたかもしれない。
(良くなっていたか悪くなっていたかはわからないが違っていたとは思う)


研修の時、夜遅くに車で寮へ送ってもらったとき、「ムスタングっていいよな!」「あれほしいな~」と話していたことを思い出す。
車の話だと思っていたら、よくよく聞くと飛行機の「ムスタング」のことだった。
いまはもう手に入れたのだろうか?


 関連エントリ:「MIMデザイン事務所の思い出 (その2)

7 件のコメント:

  1. エバアンタレス2010年11月5日 3:10

    「MIM デザイン」で検索したらヒットしたので来ました。
    自分は88〜89年に在籍していましたが、すれ違って
    ますかねぇ?(^^;)
    社長はお元気で、バリバリ仕事されてます。
    今月号の「ノスタルジック・ヒーロー」誌(芸文社)に
    インタビュー記事が載ってます。 
    MIM…仕事はキツかったけどなぜか楽しい思い出しか
    残っていません(笑)

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  2. エバアンタレスさん、コメントありがとうございます!!
    MIMデザインの事で話ができる人がいるとは思いませんでした、感動です!!
    そうですか社長はお元気ですか、おぼえてはいないと思いますが、またいつかお姿を拝見したい物です。
    当時は、人間関係やデザインのあり方に悩んでいたので自分の勝手なわがままで継続して仕事をすることはありませんでしたが、今思えば、みな個性ある人達だったものの、緑区の小さな会社で夢に向かって邁進しており楽しい職場でした。

    もう社長以外の名前はおぼえてないのですが、私が居たのはちょうど最初のKenwoodの電話機のデザインをしていたころで、おそらく87年以前だと思いますので残念ながらエバアンタレスさんとは、かぶってないと思います。
    デザイナーは新卒だったかたが一人でされており、他はモデラーでした。(私もモデラーで応募しました)
    当時モデラーグループを率いておられた男性で、ちょっとやせ形の20代後半か30代前半ぐらいで、お子さんをお持ちだった方がいると思うのですが、彼には大変お世話になりました。
    名前を思い出せないのがくやまれます。
    ノスタルジック・ヒーローぜひ、機会を見つけて読んでみたいと思います。
    ありがとうございました

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  3. ものとーん2012年7月5日 22:09

    MIMデザインで働いた事は無いのですが、関係会社のEVAで、デザイナーとして働いていました。ちょくちょくカラーコピーを借りに、MIMデザインの社屋にお邪魔して、デザインの現場を少し垣間見る事ができて、興奮していました。MIMデザイン、行きたかったなぁ・・・。

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  4. ものとーんさん、コメントありがとうございます!! おおっMIMデザインご存じの方がもう一人、というかEVAというとこちらの?http://alturl.com/5znoe いや、すごいところで働かれてたんですね。 MIMデザイン1Fは作業場でしたが、あの雰囲気が自分は好きでした。

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  5. 以前EVAでお世話になったことのある者です。当時は、ボールテックLSDやシートのSAFARIを製作していた頃ですね。懐かしい。
    皆さんのような、歴史を語れる程ではとてもありませんが、ちょっと立ち寄ったということで、足跡です。

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  6. ともきちさんコメントありがとうございます。
    意外とこのブログにたどり着いてくれる、過去の関係者の方がおおくてうれしいです。

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  7. melonさん
    恐らくその型どり専門業者と言っているのは、私の事でしょう。はっきり言って型どり業者ではではありません。当時エバエンジニヤリングとして関連会社でした。その後エアロクラフトと社名変更しましたが。HP「高須孝の手仕事BOOK」のヒストリーをご覧下さい。

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