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2010年7月18日日曜日

プロとしてのエフェクツ・アーティストとはどんなものか

プロとしてのエフェクツ・アーティストとはどんなものかを考えてみた。
あくまで自分の考えであって、一般的に言われていることでも、こうであるべきだと偉い人がいっていることでもありません。
自分自身を方向付けるために、自分がなろうとしている物、やろうとしていることを明確にするために考えたことです。

それぞれ、いろいろな意見はあると思うし、私もそれほど経験があるわけではないので、
いろいろと見聞きした中で自分なりの考え方をみつけようともがいているだけである。

なので、考えの至らない点や、間違った点はあると思うが、
基盤となる方向性を固めるために、いろいろと考えてみた。


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先日のGnomonの記事で、「9(ナイン)」の監督 シェーン・アッカー氏が語っているように、
全ての我々の仕事は「ストーリー・テリング」に帰結する。


以前、プレビジュで有名なある人との共同作業で、ことあるごとに強調されたのも「ストーリー テリング」だった。

この目的の下には、「ツールが何か」、「作り方は何か」と言うことは問題にはならない。


ようするに我々エフェクト・アーティストがいつも気に掛かる、「どんな技術をつかっているのか?」というのは、映像製作においては、ほんの一部のことでしかない。
ただ、技術によって、そこから生み出される物の質が大なり小なり違いがあり、よりコントロールを得て、よりイメージに近づけるために様々な技術が必要ではある。


映画におけるビジュアルエフェクツは、煙、炎、水、光を使い、環境や現象を表現する。

その形や、動き、色などを通じて、見る側にいろいろな心象をあたえて、そのショットで表現したいもの(ストーリー)をよりよくつたえようとする手段の一つである。
これは第一人称における環境からうける印象であったり、観客に緊張感や臨場感をあたえる雰囲気であったりする。

煙一つとってみても、それは場面によっていろいろな役割をし、そのためにいろいろな動き、形、色がある。
そのバリエーションは数多くあり、定式化できないともいえる。

ある煙はただ黙々と広がる。
ある煙は回転するように筋をひきつつ広がっていく。

これらをショットにより,「そのショットが与えるであろう心象」によって、使い分ける必要がある。
こういった数々のエレメントが頭の中に入っており、クライアントが求める漠然としたイメージをすみやかに具体的な映像に置き換えていく必要がある。


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監督が求めている明確には意識できていない部分を、くみ取り、監督に変わって具体化したエフェクトを作り出すのがプロとしてのエフェクト・アーティストといえるだろう。
これは、カウンセリングとか、子育てにも通じるものがあるw
相手の心をよみとり、先手を打って導いていくという意味で..。


これは元来スーパーバイザーやエフェクト監督の役割と言うことも可能だが、それらを他人任せにせず、プロのエフェクトアーティストとして引き受ける責任感も必要であろう。

まず、プロとしてのエフェクトアーティストとしての存在が上位にあり。
次に、その種類としてスーパーバイザー、監督、アーティストがある。
どれを選択するかは、個々の判断になる。

具体的なイメージとして、一人の独立したアーティストとして、個々のプロジェクトを運営する会社と契約することになる。
ここは、会社 対 個人の契約である。
たとえ雇う側と雇われる側という関係であるにしろ、雇う側の意識が「使ってやる」という意識があるにしろ、
個の独立したプロフェッショナルな精神をもった「一人のアーティスト」でなくてはならない。
自らの責任に全責任を負うぐらいの気迫が必要である。

この姿勢で、仕事をしていくからこそ、将来の地位も上がるし、なにより自分の仕事をよりよいものにし、
将来へのステップアップへの道も開けてくる。


自らの直接のクライアントは、スーパーバイザーやエフェクト監督であるが
最終的なクライアントは、監督であり、スタジオなどの配給会社である。

それらの最終的なクライアントは具体的なイメージの固まっていない /持っていないことがほとんどである。

「恐ろしい雰囲気で」
「不気味な感じ」
「じわっとくるように」
「ふわーっとした感じで」
というありとあらゆる言葉による抽象表現が出てくる。
実際、言葉で表現するのは限界がある。

彼らの漠然としたイメージを具現化し、彼らが予想だにしたい「ストーリーテリング」の力をもったエレメントを作成するのが、自分の仕事である。
この細部に至る部分では、監督の力を超える必要がある。

監督は映画製作を「監督」してはいるが、細部に至るイメージをすべて生み出しているわけではない。
そんなイメージを持たない人に任せてはいられないでしょう。だからエフェクトアーティストがいるといっても過言ではないし、全体をみてバランスをとるのが監督の仕事とも言える。
監督と個々のアーティストの共同作業により、エフェクトショットが作られている。

ただ言うまでもなく監督でも非常に具体的で詳細なイメージを持っている人もいる。
逆に言えばそのような人と仕事をするのは、ある目的に向かっていくので、無駄な試行錯誤は減ってくると思われるし、相互のコラボレーションもしくは自分を高みにつれていってくれるだろう。


細部そして末端部分にいたるイメージは、各担当者が作り出している。

映像に対して責任をもって事に当たるというとは、細部まで責任を持って作られた映像を生み出すと言うことになる。

プロは細部にいたるまでのコントロールと責任を持っているからこそ任すことができる存在である。
あいまいな技術力や、やとってもらうことで、言われたことをやるだけなら、プロとは言えない。
(雇う側は言われたことをそつなくやってくれる人を求めることも多々あるだろうが)

これがプロとしてのエフェクト・アーティストの姿だろう。


そのための手段としてCGソフトを使うこともあるし、撮影したフッテージを使うこともある。

CGソフトを使うときは、目的の表現を実現するために、ソフトのコントロール方法や組み合わせを熟知しておく必要がある。
結論からいえば、炎を表現するためにスプライトであろうと、フルイドであろうと、フッテージであろうと関係ない。
3Dですべて作り上げようが、2Dのプレートと組み合わせようが自由である。
結果として目的の映像ができれば良いのである。

多くのテクニカルな部分というのは、その映像の質をあげるために貢献している限りにおいてよしとされる。
そうでなければ不要である。
エフェクトアーティストになるために、様々なテクニカル面の知識を学ぶのは、
この質をあげるために貢献するかどうかという、視点で評価する必要もある。

現実には、いくら個人がテクニカルな面を勉強しても追いつかないほどの量があるので、そういったことを考える必要が無く、
望む職種をめざせばよいのだろうが、

基本的なスタンスはやはり確保しつつ、自らのポジションを自由意志により自分で選択するという姿勢はわすれてはいけない。

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