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2010年3月13日土曜日

日本の学校

モンスター化した大人が破壊する、子どもたちの大切な“もの”(日経ビジネスオンライン)


この記事を読んで、日本の学校はそこまで変わったかと、将来が憂えてくる。
最近は学習院の学級崩壊の有無が問われているが、それを今では当たり前のようによくあると書いている記者もいる。
実際そのような記者が、日本の学校のことをそれほど知っているとは思えない。よく聞くニュースで判断しているだけの話だろう。よく聞くニュースとは大抵は悪いニュースしか頭に残らない物だ。
なので、このような記事を真に受ける人はそれほどいないとは思うが、「当たり前」と書かれるとそれでも不安になってくる。

しかし今回の記事は、そのようにいたずらに不安をかき立てるだけではなく(残念ながら多少は不安をかき立てる記述があることは否定できない)、冷静に現状の分析を試み、解決の糸口を探そうとしていることには、好感がもてる。





マスコミの、学校や授業の質に対する批判は根強い。
最近は、ことあるごとに騒ぎ立てる。

このようなマスコミの態度から、人権を盾にとる親の正当化が拍車を掛けているのではないかと思った。


自分が中高生のころも不良やツッパリと言われる生徒はいた。
しかし、それが学級全体に広がることはまれである。
少なくともそういった先生方はそういった無秩序を認める姿勢は微塵にも見せないので抑止力が働いた。
高校の時などはたばこを持っていたという理由で、授業中に呼び出されて体育の先生二人に殴る蹴るされる生徒もいた。(これはやり過ぎだがw )


 この記事に書いてある「間違いを起こさない無難な教師」は、私の時代でも求められていたことだと思う。
ただ「間違い」 という言葉の意味が変わってきているようには思う。
道徳的、社会的に正しいかどうかではなく、「騒ぎ立てられないようにする」といったほうが良いように思う。
マスコミや親に騒ぎ立てられなければそれで良いということだ。

それでは親やマスコミの考える教育に合わせていくことになる。
先生というのは教育のプロであるべきで、プロがお客さんの言い分にあわせて自分のやり方をかえたり質をおとすのはどうかと思う。
他の業界ではまず起こりにくいことではないかと思う。





また、こういった学校をめぐる状況の裏には、人と人との触れ合い、自分の行動が人に影響すると言うことの実感が希薄していることがあるいのだと思う。

そして、実際に子育てに関わっている親や教師は、そういった希薄さが当たり前の環境でそだってきている。そしてそういったリアリティーが欠けて育った親が今や子育てをしている。
もちろん、すべてが問題があるほどのリアリティーが書けているとは思えないが、多かれ少なかれ現代社会で暮らしている以上、誰もがその傾向はあるとは思う。
偉そうに言っているが自分もそうだ。


子供達はそいういった人と人との触れ合い、心の触れ合いが希薄な大人達の元で、何かに導かれることもなくただ漂う。
加えて、知識詰め込みの授業によってありあまるエネルギーをどこに放出して良いのかわからない子供が増えているだろう。



こうした中、携帯電話、メール、掲示板、Youtube、TV電話そういうもので人の触れ合いが完了していると感じる大人がいることは問題だと思う。
もちろん、そういうことがより心を開くこともあり、より多くのコミュニケーションをできることもある。
しかし面と向かって、心を開いて話し合うことはますます難しくなってくる面もある。



人と人とが直接、面とむかいあうのが、人と人との触れ合いである。
たとえ相手が自分の好きではない相手でも向かい合い、相互の理解を得るために話し合いをする態度画必要になる。

二人の人の間に糸電話がはいるだけで、何かがわずかに希薄になる。
お話をしてあげるのではなく絵本を読むのでは、何かがほんのすこし希薄になる。
歌を歌うのではなく、CDを聞かせることでも、希薄になる。
カメラを通してみた映像は、もっと希薄なのかもしれない。
人の声、人の触れ合いから得られる物よりも、何かが違う。

このことを話しただけで、実感として感じられる人が減っている。
理論的には理解出来る人は少なからずいる、しかしありありとしたリアリティーをもって感じられる人は少なくなっているように思う。

ほんのわずかなことかもしれないが、それが多く積み重なり、ここの数十年でその希薄さが増加したように感じる。

コンピューターのネットワークが発達し、心と心のネットワークが衰退しているのかもしれない。
心はたえず人との触れ合いを求めている。
しかしながら直接触れ合いをした経験が少ないがために、SNSや携帯メールに心の行き場を求める。
孤独だからマスコミや、他の人達の同意を求め、自己の正当化に翻弄する。


今の社会や、学校の状況は、政府や先生が作ったのかも知れない。
その原因は両親達がつくたものかもしれない。
その原因が自分たちにあることに気がついてないのかも知れない。
その人はモンスターペアレントではないかもしれない。
しかし、モンスターペアレントのもつ一部を自分の中に持つ人はいるだろう。
それを自分の中に持たない人でも、自分の意見を出すことに躊躇する人はもっと多いだろう。
その人は、自分の意見をださないことで、それと反対の意見さえも容認することになるかもしれない。


もっと人と人との触れ合いを増やし、
人と自然との触れ合いを増やし、
自分の外界にある生き物、人間の存在に対する現実感を高めることがとくに幼少期には重要だと思う。
相手の存在への現実感が高まり、その相手の心に対する現実感が高まれば、心と心のコミュニケーションも始まる
それが出発点となる。
そして、どこまでも理解を高めようと努力するには相手の人間性を信じることができるようになることが必要だ。


今の親は、その経験が希薄であることを我々は自覚すべきだと思う。
それは教師側にも言える。
そして子供自身にも責任はある。
自らの人生に責任を持つことは子供の頃から始めるべきである。


この障害となるものに、マスコミの学校批判、教師批判がある。

これは親に自己正当の理由を与え、学校を萎縮させる。
萎縮している人間が俯瞰にたった冷静な判断ができるわけがない。批判を言う人間に従うしかない。
いかに正当にみえても批判する側のこころの奥底にうずまくものは相手の破壊である。本当にただしければ破壊すべき物もある。
しかし、それは教育の場においては、「良いvs悪い」を持ち込むことになり、戦争の原因となっているのと同じ心理を育ててしまう。。
よっとこれを助長するマスコミの学校批判と教師批判は規制するようにしてはどうかと思う。
それを子供達は敏感に感じ取り学ぶ。
それが目指す教育ならそれでよいかもしれないが、そうではないだろう。



事実を伝えるのはよいのだが、それにマスコミ自身の意見を差し挟むことは一切禁止する。
全てにおいてではなく、学校、教育、生徒、そしてその親に関する事についてだけでよい。
マスコミは感情を刺激し、視聴率を上げることしか目的にない。
視聴者に対しては無責任どころか悪影響になっている。
NHKニュースのように事実だけを淡々と伝えることだけを許可する。
エッセイは親と教師両者に対し、建設的な意見を述べるものだけに公表を許可する。


ただ、これは現実的ではない。
一番現実的なのは、個々の人間が事実のみを信じ、マスコミの意見や有識者と呼ばれる人の意見を鵜呑みにしないことだ、自分の目の前のことをじっくり観察し、事実を拾い出し、無理解を理解に帰る努力をする。
これをすべての親と教師が、少しづつでもやっていけば、おのずと解決の糸口は見えてくるのではないかと思う。

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